丸田祥三氏 「棄景写真剽窃被害」訴訟2

(長文です)

 丸田祥三氏が、小林伸一郎氏を著作権法違反で訴えた裁判は、東京地方裁判所627号法廷で4月22日13時30分、開廷した。裁判官3人による合議制だ。

 冒頭、2人揃って裁判官の前に立ち、本人確認と誓約書の読み上げを行った。裁判長は「2人で声を揃えて」というが、揃わない。

 尋問は、原告、つまり丸田氏から。自分側からの「主尋問」、続いて相手側からの「反対尋問」、補足質問、そして裁判官からの質問という順で行われる。

 主尋問は、質疑の形をとっているものの、自分たちの主張を改めて確認するものなので、基本的には地味なやりとりだ。

「いつ頃からカメラマンになろうと思ったんですか」
「学生の頃から廃墟を撮っていたら、カメラマンになっていたという感じです」

「自分が撮影した場所では、何がなんでも他の人が撮影してはいけないと思っていますか」
「思っていません。しかし、プロであれば、それまで誰も一瞥をくれなかったものに作品性を先に見出した労力に対して、ひと言ことわりを入れるといった配慮や礼儀が必要だと思います」

 といった具合に、自らの主張や立場を改めて明確に述べていく。


 主尋問で原告側が強調したのは、丸田氏が、参考にできる文献がほとんどない時期から、極めて緻密な調査を積み重ねてきたことだった。被写体になり得る施設を見出し、現存していることを確認して、由来を調査する。撮影に際しても、私有地内に入る場合は、権利者から立ち入りと撮影の許可をとっていたと
いう。

 当時は、インターネットのなかった時代である。その労力は、大変なものだった。

 例えば、旧日本軍が航空機の格納庫として建設した「有蓋掩体」。
丸田氏は、これが設置された場所を調べるために、防衛庁(当時)に足を運んで資料を閲覧した。ところが、防衛庁の資料では、コンクリート構造物である有蓋掩体と、土を盛っただけの無蓋掩体が区別されておらず、ひとつひとつ、実際に足を運んで確認するしかなかった。

 もちろん、現地を訪れたところで目当ての施設が現存しているとは限らない。無駄足になることがほとんどで、20~30カ所まわって、やっと1カ
所、満足のいく被写体を見つけることができる程度だった。

 このようにして、苦労を重ねて撮りためた写真が編集者の目にとまり、写真集『棄景』として出版されたのが、1993年。三大紙と日経新聞に写真入
りで紹介されるなど、信じられないような評価を受け、1994年の日本写真協会新人賞受賞につながった。

 被写体の歴史・由来の調査も、綿密に行われた。古書店などで入手した社史や書籍、防衛庁戦史資料室の資料などを参照し、さらに誤りを防ぐため、必ず複数の文献や証言から判断するよう心がけた。信越本線旧丸山変電所跡では、当時国鉄の新幹線総局にいたS氏が所蔵していた資料と、それとは別の自費出版による資料などを参照して記述した。

 こうした証言から、原告側は、丸田氏が誰よりも早く廃墟に着目し、コツコツと綿密な調査・取材を重ねて独自の世界観を持つ作品を生み出してきたこ
とを主張したのである。

 小林氏は、この間右斜め上を見上げるような姿勢で、目を細めて座っていた。表情は変えず、時折下を向いて、パチパチと瞬きをするだけだ。

 この後、小林氏に対する疑問、自らが受けた被害について述べられた。日本写真作家協会の新人賞を受賞した丸田氏を、同じ廃墟をテーマとする小林氏が全く知らないのは不自然であること、丸田氏の写真集に記述された解説文の誤りが、小林氏の写真集にも同じように記述されていたこと、小林氏の写真集の解説に誤りが多く、調査姿勢に問題があること、編集者から「丸田氏が二番煎じ」と誤解され批判されるなどの実害を被ったこと……。詳細は、丸田氏のブログを参照してほしい。

 40分にわたった主尋問が終わると、今度は被告側弁護士からの反対尋問となった。

 被告側の女性弁護士は、丸田氏が出版した写真集の発表年と部数をそれぞれ確認すると、きつい調子で質問を投げ始めた。

「『棄景III』では、"東京"と題して(廃墟ではなく)普通の街角を撮っているのではありませんか」
「あなたは先駆者の地位を奪われたと
いいますが、1994年に日本写真協会の新人賞を受賞されていますね。それなら、(他人が何を出そうと)評価が下がることはないのではありませんか」
「受
賞当時、あなたは無名だったのではありませんか」
「なぜ、すぐ抗議をしなかったのですか」

 だが、これらの質問は、揺さぶりだったようだ。やがて、弁護士は本題と思われる質問に入った。

「廃墟を被写体とした写真が、あなたより前に発表された例はないと思いますか」

 こう訊かれるからには、被告側は何か"証拠"を用意しているのではないか。丸田氏は、しばらく考えてから答えた。

「……あると思います。しかし、問題なのは、類似性を感じるかどうかです。私は、最初の写真集を出した当時、宮本さんという方が廃墟を撮影した写真を
発表していたことを知り、電話をしたことがあります。宮本さんは、"私とは別の作品だから構わない"といってくださいました」

 被告側弁護士は、予想通り"弾劾証拠"となる写真を提示した。

「これは、あなたが2005年12月に発表した、『棄景V』に掲載した写真ですか」
「はい」
「次にこれは、コマーシャルフォトとい
う雑誌の、2005年9月発売号に掲載された写真です。同じ場所ではありませんか」
「場所は、同じですね」

 そして、この問題でよく比較に出される、丸山変電所についても取り上げられた。

「丸山変電所は、当時全く無名だったのですか。これは、"鉄道ファン"という雑誌の、1988年1月号です。丸山変電所を撮影した写真が掲載されて
います。碓氷第三橋梁を写した写真もあります」

 ちなみに、「鉄道ファン1988年1月号」は、「碓氷電化75周年」を特集した号である。

 被告側は、丸田氏以前にも、丸田氏と同じ廃墟を撮影した写真家がいることを主張しているように感じられた。

 このほか、丸田氏がモノクロにこだわって撮影していたのではないか、広角レンズにこだわりがあるのではないかという点も取り上げられた。

「白黒は、当時のカラーフィルムに比べ保存性が高かったために使っていました」
「広角レンズを使うのは、トリミングできる可能性が高まるから
です」
「長細く写るといった効果があるのではないですか」
「そういう訳ではありません」

 こうして、反対尋問は終わった。原告側弁護士から、「新人賞受賞当時無名だったというのは、一般の人にとってという意味である」という点が確認さ
れ、最後に裁判官から1つ質問があって原告側の尋問は終了となった。時刻は、14時57分。

 ここで10分間のトイレ休廷。次は、いよいよ小林氏が初めて口を開く、「被告側尋問」である。

(つづきます)

コメント

  1. yuko より:

    早く続きが読みたいです

  2. かんりにん より:

    すみません、明日か月曜朝に更新します。

  3. 天然水 より:

    興味深く拝見しました。
    本題とは関係の無い指摘を一つ。
    地の文の“1994年の日本写真協会新人賞受賞につながった。”という部分と、
    被告側の女性弁護士の「2004年に日本写真協会の新人賞を受賞されていますね。」という発言が食い違っているようですね。
    細かい所かもしれませんが、どちらか訂正していただけると、読み易くなります。
     

  4. かんりにん より:

    天然水さま
    ご指摘ありがとうございます。修正しました。
    今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。