1985年8月12日

 20年前の8月12日。
 中学生だった僕は、親戚と一緒に毎年恒例の五日市へ水遊びに行っていた。
 秋川の河原で一日遊んだ、その帰り道。
 車の中で、僕はうとうとと居眠りしていた。
 目を覚ますと、あたりはもう暗い。時計を見ると、7時半をまわっている。
 さっきまでにぎやかだった車内は、妙に静かだった。
 聞こえるのは、ラジオの音ばかり。
 ものすごく緊迫した雰囲気が、アナウンサーの口調から伝わってきた。
「飛行機の事故らしい」
 親父が言った。
「繰り返します。運輸省の~に入った連絡によりますと、今日午後7時頃、東京から大阪へ向かっていた日本航空のジャンボジェット機が、レーダーから消えました」
「レーダーから消えた」という表現が、子供心にものすごく恐ろしかった。事故、とも、墜落、とも言わず、「レーダーから消えた」。飛行機は、どこへ行ってしまったのだろう。
 その晩は、自宅に帰ってからもずっとテレビのニュースを見ていたはずだ。でも、具体的なことはほとんど覚えていない。唯一はっきり覚えているのは、生存者発見の一報が入ったときのことだ。手を叩き、バンザイした。そして、泣いた。ニュースを見て泣いたのは、後にも先にもあのときだけだった。
 今だから白状するが、生存者の一人、川上慶子さんにお見舞いの手紙を書こうとしたのは僕だ。当時聞いていたラジオ番組、「三宅裕司のヤングパラダイス」の「チェッカーズに会える権」プレゼントに、「当たったら川上さんに譲る」と書いて熱心に応募したのも僕だ。ほかにも生存者はいたのに、これだ。若かったとしか言いようがない。
 それだけ、衝撃的な事故だったということだ。
 皆さんは、あの日、何をしていただろうか。

コメント

  1. renoma より:

    中野星の会で、菅平に行ってました。

  2. かんりにん より:

    中野星の会か~ 懐かしいというかなんというか、若き日を思い出しますなあ。
    たしか、高校の天文部も、合宿で野辺山行ってたんだよな、あの日は。

  3. min より:

    川上慶子さんと同い歳で島根育ちです。
    あの日(というか、墜落の次の朝)は通っていた中学校の「出校日」で午前中学校へ。
    同じクラスのA君が少年院送りになった大ニュースを母親に伝えようと思い、
    「お母さん、お母さん、Aくんがね~!!」
    というのを遮って、母親が
    「それよりMINちゃん、飛行機が落ちて出雲の子がたすかっちょう!(←出雲弁)」
    以後、ず~っとテレビに釘付けでした。
    焼けこげた山に散乱する機体や、助けられる慶子さん、体育館にならべられた棺・・・今でも目に焼き付いてます。