土曜日の午後、小田原から戻った後は、日本橋でレイルウェイ・ライター種村直樹氏の「日本列島外周の旅ゴール」に立ち会った。
日本列島外周の旅とは、僕の師匠でもある種村氏が、1980年から30年近くにわたって続けてきたライフワークだ。1980年6月5日に日本橋東京市道路元標をスタートし、時計と反対回りで、日本列島を海岸沿いに旅をしてきた。当初のルールは、鉄道やバスなどの公共交通を利用し、なるべく海岸線に沿って日本を一周するというものだった。当初は年2回、次第に年3回、4回と頻度を増やし、原則として1回5~6日のペースで、コツコツと旅をしてきた。
最初のうちは、1回目の5日間で東京から房総半島をまわって仙台まで到達するなど、時刻表に掲載されている路線をベースとした大ざっぱな旅だったが、種村氏が熱中するにつれ、行程がどんどん細分化。公共交通がない場所では歩くことも増え、ペースが極端に遅くなっていた。果たしてゴールできるのか、心配されていたほどである。
2000年には、くも膜下出血で生死をさまようなど、何度も病と闘ってきた種村氏だったが、出発から30年目に突入したこの日、とうとう、出発地である日本橋に戻ってきた。
日本橋のゴール地点には、長年の読者120人あまりが集まり、新聞社も毎日新聞と朝日新聞が取材に来てくれた。さすがに、公道に120人も集まるのは迷惑なので、ただちに橋のたもとにある小さな広場に移動し、記念撮影。そして、取材。
最近は、読者が集まる機会もかなり減っていた。これだけの人が集まるのは、93年のレイルウェイ・ライター開業20周年のイベント以来かもしれない。十数年ぶりにお会いする人も多く、懐かしかった。それにしても、自分を含めて、みんな歳をとってしまったものだ。
記念撮影と、新聞社の取材が終わると、その場はいったん解散。日本橋の居酒屋をワンフロア借り切って、祝宴を行った。まあ、同窓会みたいなもんである。
まあ、いろいろあったけど、先生お疲れさまでした。また、のんびりとした汽車旅に出かけましょう。
コメント
日本橋へ、銀座へ
雨が収まりかけた昼前から始動して、しばらくぶりに道場へ。外の試合に出ている人もいたし、この天候もあってか、帰ろうとしていたNさんと入れ替わりで少し引く。そして1人で片付けようとした時にN君登場。星から急遽戻って東京勤務だそうで何より。
久闊を叙したいところだが、…
とうとうゴールされたましたか。
スタートが載った「旅と鉄道」を偶然購入し、読み始めてから30年近く経つのですね。
長期間に渡り、日本一周お疲れ様でした!
レィルウェイ・ライター種村直樹氏の「日本列島外周気まぐれ列車の旅」ゴールを祝う
レィルウェイ・ライター種村直樹氏の「日本列島外周気まぐれ列車の旅」のゴールを祝う
The goal of "a trip of a Japanese-Islands perimeter capricious train" of Railway Writer Mr. Naoki Tanemura is celebrated.
〔Nara Japan/2009/6/9/5:00〕久々に明るい話題を聞いた。日本の鉄道関係のライターのパイオニア的存在にして第一人者であるレィルウェイ・ライター……
1週間ぶりの亀レスです。
レイルウェイ・ライターが外周の旅を始めた頃、僕は種村直樹という存在すら知りませんでした。いやはや、長い時間が過ぎたものです。