【韓国留学まで 2】あてもなく、貯金。

 1996年、沢木耕太郎の「深夜特急」が大沢たかお主演でドラマ化。「進め!電波少年」では、猿岩石の「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」が社会現象となり、この頃、バックパッカーは一種のはやりだった。

 僕は、昔から蔵前仁一のバックパッカー本を愛読し、周囲に世界一周をした友達も大勢いた。学生時代は国内に目が向いていて、ほとんど海外には行かなかったが、大沢たかおや猿岩石らを見ているうちに、「やっぱり一度は世界を見たい、できることなら世界一周したい」と思うようになっていく。

 それで、貯金を始めた。1997年暮れ頃のことだ。

 もちろん、苦労して就職した立場を安易に捨てて、後先を考えずに半年や1年のバックパック旅行に飛び出すことはあり得ない。そういう人は掃いて捨てるほどいるし、モラトリアム期間にこそなっても、仕事をする上での「経験」にはならない。

 現実には、自分がそんなむちゃな旅をすることはあり得ない。それは内心わかっていたが、「自分はいつか海外に出る」という、漠然とした気持ちは心の中にずっと居座った。

 彼女もおらず、「将来のための貯金」は全然しなかった自分だが、「世界を見るため」という動機ができると、急にお金が貯まりだした。97~98年ごろはたいしたことなかったが、99年から2000年にかけては、ボーナスには全く手を付けず、年間100万円くらい貯金していたはずだ。

 そうこうしているうちに、1998年夏、僕は海外旅行のガイドブック編集部へ異動になる。

 最初のうちは、中国やヨーロッパを担当していたが、1年ほどたった頃、韓国を担当していた部員が部署を離れた。そこで、後任として、僕が韓国も担当するよう命じられたのである。

 「何か経験を積みたい」「いつか世界に出てみたい」。そんなことを漠然と考えながら、あてもなく貯金に励んでいた頃、僕は仕事で「韓国」とかかわることになった。その頃は、韓国について担当地域のひとつという以上の興味はなかったのだが。

 さて、韓国担当を命じられてから、またしばらくたった2000年早春。僕の周囲で、とんでもないことが起きた。